1963年(昭和38...:前ページ
次ページ:1965年(昭和40...
- 1964年(昭和39年)の松下通信
- ■電子計算機事業からの撤退
- 研究開発を続けていた電子計算機が事業化の段階となり、昭和39年1月に電子計算機事業部を新設した。しかしほどなく電子計算機事業からの撤退が決定され、10月に事業部名称をシステム事業部に変更して業務方向を転換した。システム事業部は、電子計測事業部との統合や制御機器事業部としての再独立をへて、松下通信での情報システム事業を拡大することになる。
- ■東京オリンピックへの機器納入
- 昭和39年10月に東京オリンピックが開催され、松下通信も多数の機器納入で参画した。駒沢陸上競技場、バレーボール会場など、競技場の音響設備の70%を受注し、ホール音響システム設計の技術をベースに新たなスポーツ施設向け音響装置を開発した。またオリンピック開催に合わせ開通した東海道新幹線にも列車用アンプが採用された。
- ■佐江戸地区の用地取得
- 業績の急激な伸びは綱島地区では遠からず限界が来ると判断され、新たな用地の取得検討に着手した。工場誘致計画にもとづく横浜市の勧めもあり横浜線鴨居駅近くの佐江戸町の農地が最適用地として購入が決定され、約100名の地主との買収交渉により約65,000平方メートルの土地を取得、昭和39年9月に登記を完了。同時に松下電器も将来に備えてその北側約87,000平方メートルを取得、この北地区は6年後に松下電器から譲り受けることになる。
- ■綱島地区第3期工事竣工
- 綱島地区にはまだ用地にゆとりがあり、タクシー無線とボタン電話の生産増に対応するため昭和39年8月に第3期工事に着手した。第3期工事は3階建て3,400平方メートルの新工場増設で、スピード工事により着工後5ヶ月の12月に竣工した。
- 1964年(昭和39年)の納入製品・販売製品
- ・オールトランジスタ携帯用無線機を警察庁に納入
- ・1kWステレオ型FM放送機をNHKに納入
- ・東京オリンピック用音響設備を、駒沢陸上競技場・駒沢球技場・馬事公苑・日本武道館・ 後楽園アイスパレスなどに納入
- ・わが国初の交通管制システムを首都高速道路公団東京三宅坂インターチェンジに納入
- ・電子式自動着順判定装置を東京オリンピック水泳競技場に納入
- ・立体音響装置をホテルニューオータニーに納入
- ・新幹線車内音響装置、トンネル警報装置を国鉄に納入
駒沢陸上競技場に音響設備納入
日本武道館に音響設備納入
建設中の佐江戸地区工場
1963年(昭和38...:前ページ
次ページ:1965年(昭和40...
■目次
第1部:未来つくりの日々
1958年:松下通信工業誕生、発足記念式での話、引き継いだ事業、発足時の概要・組織、東京営業所の開設/ 1959年:本社工場用地取得、人材の採用、品種別組織の採用、FM無線機の事業化、販売会社の設立/ 1960年:横浜綱島に本社工場移転、労組新支部と新従業員組織の発足、電子学校の開設、録音機事業を移管/ 1961年:事業部制の導入、電話機器分野に進出/ 1962年:3事業部制から6事業部制へ、FM放送装置の開発/ 1963年:増設工事の実施、大幅増資の実施、マイクロホンの量産化/ 1964年:電子計算機事業からの撤退、東京オリンピックへの機器納入、佐江戸地区の用地取得、綱島地区第3期工事竣工/ 1965年:販売網の整備、完全週休2日制の実施、スローガン決定/ 1966年:田中新社長の就任、テレビカメラを事業化/ 1967年:郵政省への機器納入、佐江戸地区への移転/ 1968年:株式を上場、ミニコンピュータの開発、ポケットベルの開発、自動車電話の開発/ 1969年:事業部の再編・統合、事業本部制の導入/1970年:松下正治会長の就任、交通管制システムの開発、衛星搭載機器の開発/ 1971年:集積回路工場竣工、視聴覚機器事業部を佐江戸北地区へ、鉄道自動案内放送システムの開発/ 1972年:担当専務制の導入、海外に自動車電話を輸出/ 1973年:ミニコンで富士通と連携、自動放送システムの開発、カーラジオ生産1千万台を達成/ 1974年:福島県白河に工場展開、長野県松本に工場展開/ 1975年:タクシー自動配車システムの開発、POSシステムへの参入/
第2部:業界のリーダに
1976年:小蒲新社長の就任、800MHz帯自動車電話を商用化/ 1977年:小蒲社長の運営方針、カーコンポ時代の到来/ 1978年:デジタルビデオプロセッサの開発、カーステレオが北米で好評/ 1979年:ソフト会社の設立、工事会社の設立、プロ用サウンドRAMSAブランド誕生、カーラジオ生産2千万台を達成/ 1980年:研究開発体制の強化、カーエレクトロニクス時代へ/ 1981年:ビデオカメラ事業部を新設、岩手県花巻市に進出/ 1982年:アストロビジョンの開発、MCA無線システムの開発、パソコン事業での挫折/ 1983年:創立25周年での思い、組合要求でスポーツセンター竣工、光通信LANの開発、アメリカ松下通信の創業、情報システム事業部、メモリー装置事業部の新設/ 1984年:超波診断装置をシーメンスへ、集荷情報処理システムの開発/ 1985年:アメリカ松下通信の子会社化、ドイツ松下通信の設立、技術研究棟を佐江戸地区に、ショルダーホンの開発/ 1986年:石澤新社長の就任、石澤体制の役員陣容/ 1987年:Nシステムの開発、アメリカ松下通信、シカゴからアトランタへ、フィリピン松下通信の設立/ 1988年:イギリス松下通信の設立、松下通信仙台研究所の設立、電波事業部樽町工場の展開/
第3部:モバイル日本一へ
1989年:松田新社長の就任、松田体制の役員陣容、松下通信金沢研究所の設立/ 1990年:経営ビジョン「10年構想」を策定、事業本部制を再導入/ 1991年:携帯電話「ムーバーP」快進撃開始、松下通信静岡研究所の設立、静岡工場を竣工/ 1992年:テレコム研究所、AV&C研究所を設立、北京松下通信を設立、YRPへの参画を開始、カーナビゲーションの開発/ 1993年:川田新社長の就任、川田体制の役員陣容、米国エミー賞3年連続受賞、パーソナルコミュニケーション事業部を新設、ビジネスワープロ事業の移管/ 1994年:米国マグドナルド向けPOSシステム好評、カーエレクトロニクス事業部、カーシステム事業部の新設/ 1995年:YRP移動通信基盤技術研究所設立を主導、メキシコ松下通信、大連松下通信を設立、PHSサービスの開始に貢献、蘇州松下通信を設立、カーオーディオ、生産累計1億台を達成/ 1996年:YRPへの単独進出を決定、コミュニケーションシステム事業部を新設、放送システム事業部を新設/ 1997年:ITS事業開発センターを新設、発展2000年計画を策定、ITS評価実験施設を竣工/ 1998年:創立40周年を挙行、国内携帯電話が高い評価、松下通信YRP研究所を竣工、全工場が環境認証を取得、西暦2000年問題への対応/ 1999年:ETCシステムでトップに、W-CDMA端末・基地局メーカーに指定、英国シンビアン社に出資、SDカードの導入検討を開始、放送システム事業の移管/ 2000年:ソフト開発体制の強化、初の海外IR活動の実施、W-CDMA基地局装置を初出荷/ 2001年:海外での移動体開発体制の強化、欧州携帯電話事業の再編、グローバル1兆円を達成、桂新社長の就任、桂体制の役員陣容、カンパニー制の導入、携帯電話プラットフォーム開発の強化、NECとW-CDMA端末で提携、W-CDMA端末を初出荷、佐江戸新研究棟の竣工/ 2002年:630名の早期退職、初めての赤字決算、松下電器の完全子会社化へ/ 2003年:松下通信の消滅/
1963年(昭和38...:前ページ
次ページ:1965年(昭和40...