小説「松下通信物語」

松下通信物語「未来つくりの半世紀」:Panasonic(パナソニック)再生の原点、システム事業のルーツ、松下通信工業株式会社の足跡・歴史

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小説「松下通信物語」

2009年4月某日

原田は横浜馬車道にある自分の会社のソファーに座り、トヨタが発表したばかりの新型プリウスのパンフレットに目を通していた。中古で買った愛用のマークⅡがかなりオンボロになってきたので次の車に買い替える必要に迫られていた。プリウスは少し小さいが低燃費車ため税金が免除され、しかも中古車買取り制度も導入されるとあって人気を呼んでいた。今予約すれば7月には納車できるとのことで、多分この選択は間違いない。後は同じ会社で働いているカミさんをどのように説得するか、原田がそのことを考えていたその時、電話が鳴った。
「もしもしトップファイブシステムの原田さまでしょうか。」初めて耳にする声だった。

「私は日経新聞記者の鈴木と申します。御社が創業以来、順調に伸びていることを耳にしました。そこで『かながわの飛躍企業』のコーナーで取り上げさせていただきたいと考えております。」「つきましては来週15日に取材にお願いしたいのですがいかがでしょうか。」

新聞社の取材は、創業時に受けて以来、久しぶりのことだった。創業から4年目、確かに事業は軌道に乗り始めていた。断る理由は何もないと自分に言い聞かせ即座に了解の旨を伝えた。

1週間のうちに準備をしておくべき項目がいくつか浮かび、まとめるのはそれほど難しいことではないと思った。ただこれが鈴木記者との長い付き合いの始まりとはこの時は想像もつかなかった。


2009年4月11日

日経から要請を受けた取材日は4月15日。記者に説明すべき内容を事前にまとめておこうとパソコンに向かった。資料やデータは普段から用意しており、会社概要、事業概要、設立趣旨、事業推移、事業の強み等を一気に作成することが出来た。さらに、せっかくの機会なので、魅力ある記事に仕上げてもらうためにも、そもそも何故この会社をつくったのかというところも振り返って整理してみることにした。

原田がネットワークカメラの専門販売会社を創業したのは2005年4月。そのわずか半年前まではパナソニックシステムソリューションズ社(PSS社)の技術本部長兼CTOの役職についていた。当時、パナソニックはいくつかのドメインに別れて経営しており、PSS社はその内のシステム事業を担当する社内分社で、家電が主流のパナソニックの中ではどちらかと言えば異端の存在だった。

PSS社の技術責任者であった原田が何故パナソニックを飛び出したのか。半年間の準備期間を設けたとは言え、それまで何の営業経験もなかった原田が、何故ネットワークカメラの販売会社を立ち上げたのか。多くの人には理解に苦しむ話だが、振りかえれば、原田にはその決断を下す2つの大きな理由があった。


パナソニックを飛び出した2004年当時、監視カメラと言えばまだアナログ監視カメラの時代だった。パナソニックはこのアナログ監視カメラで国内シェア第1位の企業だった。すでにネットワークカメラも市場に出していたが、傘下の事業者には技術の異なるネットワークカメラへの切り換えは危険な冒険と判断された。当然ながら事業への貢献度は比較にならず、当面の製品開発もアナログ監視カメラに重点が置かれ、ネットワークカメラの開発機種数は限定されていた。

しかしながらネットワークカメラの技術的な優位性は明らかだった。アナログ監視カメラがモニターとレコーダーにしか接続出来ないのに対し、ネットワークカメラはネットワークに接続しパソコンで画像を確認出来るということで、遠隔監視や画像記録も容易に実現可能という優れものだった。監視カメラの市場にネットワークカメラの時代が来ることは時間の問題だった。


原田がPSS社内の経営会議でこの点を訴えても賛同する幹部は少なかった。ネットワークカメラがいかに技術的に優れていても、市場での認知度の低さが、積極的な投資と市場開発を躊躇させていた。会社の規模が大きくなれば流れを変えることが難しいのもやむを得ないことだった。

一方では、ネットワーク業者や新規の監視カメラ業者からは、ネットワークカメラを使って事業展開する人たちが少しずつ増えているのも事実だった。この人たちに、技術サポートをしながらネット販売を利用してネットワークカメラを供給することで新しい市場を開拓出来るかもしれない。新しい市場が出来れば、パナソニックの販売ルートに風穴を開けることになり、将来の監視カメラの主役交代を早めることが出来るかもしれない。

こう考えたのが、原田の独立、会社創業の第1の理由だった。

原田がパナソニックを飛び出した2番目の理由は、2004年4月に始まったHR改革と称するPSS社人員削減計画への反発だった。当時は社内の誰もがリストラと受け止めていたが、あえてリストラという言葉が使われることはなかった。500人を超える削減計画は技術部門も聖域でないとされ、不本意ながら私は技術部門の削減計画推進担当者となった。

PSS社は旧松下通信工業のシステム事業部門と旧松下電器のシステム営業部門を母体として発足し、パナソニックの複数のドメインの内のシステム事業を担当していた。当初から低い収益性が課題で、パナソニック本社から厳しい経営改革が求められていたことが背景にあった。

とはいえ、システム事業は将来のパナソニックの柱に育つ可能性が大きいとの確信を持っていたので、この人員削減計画には少なからず失望した。事前に人事責任者から相談された際も強く反論したが流れは止められなかった。削減計画の完了に合わせてパナソニックを去ろう、会社を辞めて若い頃からの夢でもあった起業に挑戦しよう、望むなら共に退社する部下も雇用しよう、そう決断するのに時間はかからなかった。

パナソニックを退社するに至ったこの2つの理由も別紙にまとめ日経記者への取材準備は完了した。



2009年4月15日

日経鈴木記者は予定通り10:30に来社。忙しいのだろうか挨拶してすぐソファーの方に向った。穏やかな顔に精悍な眼差しで30代半ばのベテラン記者のように思われた。お互いに自己紹介の後、取材の機会を与えていただいたお礼を述べ、用意した14枚の資料を渡した。鈴木記者はパラパラと資料に目を通し、ご当人の構想と一致していたのか早々と安堵の表情が浮かぶのが見て取れた。取材は、まず会社概要や設立趣旨、事業内容、経営概況等のひと通りの説明から始まり、いくつかの点について質問があり、次に商品そのものが話題となった。

「ネットワークカメラは技術的に難しい商品ですか」
「アナログ監視カメラと見た目も用途も同じですが、技術的には全く異なります。通信機器ですから一定のネットワーク技術は必要です。このショップではライブ映像のコーナーを設けて実際に外部からアクセスいただくと共に、独自の接続設定ガイドを作成してネット上で公開しています。ネットワークカメラに不慣れな業者様にこうした技術的なフォローをさせていただくことで少しずつお得意様を増やすようにしています」

鈴木記者にとってもネットワークカメラは馴染の薄い商品だったので、こうしたやり取りがしばらく続いた。そして次に質問は、パナソニックを退社してまで何故この会社を立ち上げたのかという話題に移っていった。

「パナソニックを退社してまでこの会社を立ち上げたいきさつは?」鈴木記者は次のポイントと言わんばかりに質問を切り替えた。
原田は2つの理由を記載した別紙を渡して説明した。ネットワークカメラの普及に新しい施策がいること、会社の人員削減計画に納得がいかなかったこと、この2点を簡潔に話した。おおよそは理解していたのかまずは頷くだけだった。

「技術本部長をされていてためらいはなかったのですか」
「その点はカミさんに感謝しています。創業の思いを話した時に反対することなくいっしょにと言ってくれました。カミさんの参加がなければ間違いなく座礁していました」

1時間ほどの取材を終え、鈴木記者にはかなり満足いただいたように見えた。
「今日はありがとうございます。明後日17日の日経朝刊に掲載の予定です。実は、今後、松下通信の歴史についても取材したいと考えています。まだ構想段階ですので、後日改めて相談させていただきます」

鈴木記者の帰りの挨拶には意外な内容が含まれていた。明後日の日経記事が気になったが、それ以上に松下通信のいくつもの歴史が頭の中を駆け巡った。


2009年4月17日

取材された弊社の記事は、4月17日の日経新聞朝刊の神奈川・首都圏経済面に掲載された。『顧客の安全需要をつかむ トップファイブシステム』のタイトルで、ヨコに22行、タテに7段も使った写真入りの大きな紙面だった。期待以上の扱いに思わず小躍りした。

ネットワークカメラが技術を伴う製品なので専門店の必要性が高まっている。トップファイブシステムがこの要請に応えているので躍進していると、強調されていた。独立・創業に至ったいきさつについては、パナソニックの人員削減の件には触れられていなかったが、普及を加速するために従来とは違う販売手法が必要と、短く且つしっかりとまとめられていた。

事業の概要、経営の推移についてもわかりやすく紹介され、創業以来順調に伸びていること、昨年度の売上高は7,424万円であること、が書かれていた。そして、今年は1億円達成を目指していると、結ばれていた。

しかし、実はこの後、トップファイブシステムにとっては、予想もしていなかった難題が待ち構えていた。


2009年5月某日

振り返れば創業は厳しい船出だった。予定していたメンバーは多くが直前で二の足を踏んで3名となり、その内の元部下の1名もすぐ病気休養となり、実質原田とカミさんとの二人での立ち上げとなった。創業年の12月期の決算はわずかに1,000万円にとどまった。

しかし年が明けて2年目から躍進は始まった。ネットワークカメラが世の中で認知され始めたこと、パナソニックの工事協力で件名受注が出来るようになったこと、楽天市場への出店が軌道に乗り始めたこと等が大きい。売上額は毎年飛躍的に伸び、前年は7,000万円を超え、創業5年目の2009年は1億円超を目指せるところまで来た。

ところがここに来て難しい事態に遭遇した。4月に日経新聞に躍進状況が掲載されたにもかかわらず、5月に入ってから何故か業績は急降下を始めた。特にこれまで順調に伸びていたネット販売への注文が激減し、まさに失速状態に陥り始めた。創業時も苦しかったがあの時は打つべき手が次々とあった。今度は要因がつかめず、したがって打つべき手が見当たらず、あせりや恐怖心さえ感じるほどで、静に思いを巡らせたが何も出てこなかった。

これまで事業の分析をおろそかにしていたことを戒め、1週間でこの要因をつかもう、要因をはっきりさせて打つべき手を明確にしよう、このピンチをチャンスに変える機会にしよう、そう決意することでともかくも前に進もうと思えるようになった。

何故急激に販売不振となったのか、調べるうちに少しずつ要因がわかってきた。結論から言えば、ネットワークカメラの知名度が上がるにつれて普及率が進み、扱う業者が増えてきただけでなく、売る側も増え出したことが背景にあった。つまり買う側の選択肢が増えることによりいつのまにか競争が激しくなっていた。

ネットワークカメラを設置する業者の数が全国的に増えるに従い、それぞれの業者は技術面でも力をつけ、カメラ本体を仕入れるにあたって、技術サポートが期待できるかどうかより、より価格の安い購入先を探すようになっていた。

一方、売る側も、従来からの電気製品通販会社のいくつかがネットワークカメラを扱うようになり、技術サポートは全く受けない代わりに衝撃的な低価格での販売を始めていた。

しかも、家電製品の価格比較で良く利用される価格コムサイトにネットワークカメラが登場するようになり、買う側にとって、価格の安い販売業者を容易に見つけられるようになっていた。つまり、ネットワークカメラが普及するに伴い、買う側も売る側も増え、技術サポートで勝負する時代から価格で勝負する時代に一気に変わってしまっていた。

価格コムサイトでのネットワークカメラの最安価格を調べてみると、ほぼ仕入れ価格に近く、当然ながら販売サイト「セキュリティ工房TOP5」での販売価格は魅力ないものになっていた。

そこでまず仕入れ価格から手を打つべきと、現状の説明資料を添えてパナソニックに仕入れ価格の改定をお願いした。何度かのやり取りの後、当社担当者の頑張りにより価格見直しは了承いただいたものの、年間仕入れ総額1.2億円が新しい条件として加わった。高いハードルだったが、弊社のビジネスモデルを再検討するいい機会でもあり、パナソニックに了解する旨回答した。

新しく考えた販売施策は、概ね次のような手立てだった。

1、件名受注や店頭販売を中止し、ネット販売のみに専念する。

2、技術で負けない店舗から価格で負けない店舗にシフトする。

3、価格コムサイトにTOP5楽天市場店サイトでエントリーする。

4、ヤフーやグーグルでの有料ネット広告を開始する。

5、カメラ本体のみでなく周辺機器の品揃えも充実させる。

これらの施策は面白いほどにすぐに反映され、業績回復が実感できるようになった。価格コムや楽天市場の利用効果は大きく、「セキュリティ工房TOP5」の認知度を上げることに大きく貢献した。当社の12月期決算での1億円突破と、パナソニックの2010年3月期での当社仕入れ額1.2億円超が、通過点に過ぎないと感じるようになっていた。


2009年6月某日

2005年の「セキュリティ工房TOP5」創業時、まだネットワークカメラは市場に出始めたばかりで、ネットワークカメラ専用レコーダーはパナソニックでさえ製品化されていなかった。そんな中で早々と専用レコーダーを自社で開発し商品化した2社、大阪のR.O.D社と金沢のCPU社が早い段階で連携を求めてこられた。

R.O.D社は、当時出版社として急成長していた国際通信社の安楽創業者のご子息が独立して新規事業として起こした会社で、社長の安楽氏は穏やかでいつも紳士然とした振る舞いに敬服していた。安楽社長から、旧九州松下系のPCC社とは付き合いがあるが、旧松下通信系のPSS社とは付き合いがないのでぜひ紹介してほしいと相談されたことがある。そこでPSSM社の新宿本社で関係者に集まってもらいR.O.D社の製品である専用レコーダー:Viostar-220の説明会を開催した。残念ながらこの時はパナソニックの品質条件に合わず不採用となったが、安楽社長からはビジネスのきっかけが出来たと喜んでもらえた。

CPU社の創業は当社より20年も早く、国内初のCADソフトを開発した会社として成長し、その勢いで専用レコーダーを開発してセキュリティ業界への進出を目論んでいた。会社トップである創業者にお会いすることはなかったが、当社と積極的な連携を持ったのは営業担当の前田氏と東京の西支店長だった。

R.O.D社、CPU社とも専用レコーダーを製品化したものの、ネットワークカメラ本体は生産しておらず、件名受注に際してはパナソニックのネットワークカメラの採用によりシステム構成されていた。しかもパナソニックには専用レコーダーがなかったことから、両社の存在は重要で、お互いに補完することにより取引を継続していた。

ある日、CPU社の前田氏から「あらためて相談があります。」との連絡を受けてお聞きした話は、原田にとってはいささか驚くべき内容だった。

金沢のCPU社から、あらためて相談がありますと受けた内容は次のようなものだった。

CPU社は、自社のネットワークカメラ専用レコーダーの受注を進めるために幅広く全国で工事件名として仕事をうけていたが、ネットワークカメラ本体はその都度手配していたとのことで、これまでは多くを大阪R.O.D社を通してパナソニックのネットワークカメラを入手していたとのこと。

ところが、R.O.D社からの仕入れに対して社内から疑義が出だした様子で、1つはR.O.D社がビジネス上のライバルであること、2つは必ずしも十分な供給能力があるわけではないこと、3つは費用面でも満足出来ていないこと、が背景にあった。そこで今後は、R.O.D社からのネットワークカメラの仕入れを全面的に「セキュリティ工房TOP5」に切り替えたいが対応いただけるか、とのことだった。

在庫確保にこれまで以上のリスクが求められるものの、ネットワークカメラの販売を事業としている以上、断る理由はなく即座に快くお受けした。

しかし全国展開を目指すCPU社が、何故パナソニックと直接取引せず当社からの都度仕入れとしたのか、この点がいささか疑問に残った。そしてこの小さな疑問は、実はCPU社の大きな弱点であることが後にわかった。

専用レコーダーの全国展開を目指すCPU社が、何故必須機器であるネットワークカメラを、パナソニックからではなく当社からから都度購入する方法を選択したのか、それはCPU社が経営を進めるにあたっての重点事業の戦略に問題があった。

CPU社が事業の主力に置いていたのは従来からのCADソフト事業で、専用レコーダーを核とするセキュリティ事業に重点的に投資を進めるという経営体制にはなっていなかった。全面的にセキュリティ事業に邁進するR.O.D社との違いは明確で、徐々に両社の差が開き始めたのはやむを得ないことだった。

その後、パナソニックが当時人気機種だったモニタリングユニットBB-HTU100の生産中止を決めた際に、当社からの助言としてCPU社に対してこの機器の開発・製品化をお勧めし、CPU社の商品群に加えれば大きなビジネスチャンスが生まれると提案した。CPU社は、この提言を受け入れて積極的に検討されまさに開発直前まで進んだが、最終的にトップの判断で断念された旨の報告を受けた。

ところがこの話には続きがあり、CPU社の小型専用レコーダーを委託生産していた横浜ビジネスサービス社がいつのまにかCPU社のモニタリングユニット開発計画を引き継ぎ、実際に開発に着手し始めた。横浜ビジネスサービス社では、苦戦しながらも開発に成功したモニタリングユニットにあらたに「エルーア」と名付け市場開発に力を入れ始めた。

現在のエルーア社は、横浜ビジネスサービス社の高橋副社長が分離独立してあらたに立ち上げた会社で、パナソニック出身のエルーア社の高橋社長は、私がR.O.D社をパナソニックに紹介した説明会でPSSM社取締役としてパナソニック側の責任者を務めた人物だった。これもまた一つの縁で、時の流れの妙を感じていた。

R.O.D社とCPU社は今でも存在するが、両社の差は大きく開き、「わずかな差が大きな差になる」ということをつくづく思わせる展開になった。


2009年9月某日

2日前の土曜日、原田は東京八芳園で息子の結婚式を終えたばかりだった。娘の家族や兄夫婦他、両家の多くの親戚や会社関係者、友人、知人が集まり天候にも恵まれた親としても十分満足できる式だった。段取りは息子と婚約者、カミさんに任せきりでほとんど準備にはかかわっていなかったのに、式を終えると何か大きな仕事をした気になっていた。

そんな余韻が残る中での仕事中、久しぶりに日経鈴木記者から電話が入った。
「もしもし日経の鈴木です。先日はお世話になりました。急なのですが、今日午後に少し時間をいただけませんか。内容はその時にお話しします。事前の準備は不要です。」 
いつもながらテンポのいい話しぶりだった。

その日の午後、約束した時間より少し遅れて鈴木記者はやってきた。
「実は、社として松下通信工業という会社にターゲットを当てた企画がまとまりつつあります。これまでの新聞記事やマスコミにも何度も登場していますのでおおよその事は理解しているつもりですが、その歴史に再びスポットを当てて様々な角度から掘り下げようとしています。その担当が私と言うことになりました。」
鈴木記者から松下通信工業と言う言葉を聞いた時、思わず、懐かしい場所、懐かしい仲間、懐かしい仕事が勢いよく蘇ってきた。

「最終的にはこれまでにない形で全体像をまとめたいと思っていますが、今日はまず3点のみお聞きしし、今後の進め方の参考にしたいと思っています。」
鈴木記者が松下通信工業の歴史をまとめるに当たり、まず原田のところに連絡いただいたことに胸の高鳴りを感じていた。

3点あるという鈴木記者からの質問に順次答えた。
まず第1の質問は、「個人的な考えで結構ですが、松下通信という会社はどういう会社だったのでしょうか?」

「会社の規模という点では、おおまかにいって松下電器の1/10ぐらいでしょうか。産業分野の中で先進的な技術を担っているという自負があり、元気のいい会社でした。全員松下電器からの出向という身分なので子会社という引け目はなく、むしろ最初から松下通信を志望して入社してくる者は少なくありませんでした」

「事業経営の違いという点ではどうでしょうか」

「松下電器でのお客様は大部分が一般消費者であるのに対し、松下通信では主たるお客様は企業・法人様という点で大きく違っていました。商品開発のサイクルや投資回収のサイクルも全く違っていました。人に説明する時には、松下電器は製品を作ってから営業するが、松下通信では営業してから製品を作る、と話していました」

鈴木記者は、なるほどと相づちを打ちながら次の質問に移った。

鈴木記者にとって第1の質問は、まずはウォーミングアップという感じで、第2の質問はするどく本質をついてきた。
「結局、松下通信は何故消滅することになったのでしょうか?」

予期せぬ質問に少し考えて言葉を選んでから答えた。
「松下通信が消滅したのは2003年ですが、その2年前までは松下グループ内でも稼ぎ頭でした。国内の携帯電話市場ではトップを走り、海外でも積極的な展開を図りグルーバル1兆円を達成したばかりでした」

一息置いてからさらに答えた。
「ただ松下電器本社から見て、松下通信は投資回収のサイクルが長い、松下電器に比べて物づくりがうまくない等の歯がゆさがあり、何とかメスを入れたいと思う経営幹部は少なくありませんでした。消滅のきっかけとなったのは海外携帯電話市場で苦戦していたことによりますが、当時、中村社長が進めていた施策「破壊と創造」の最大の対象となったことで大きな改革が進められることになりました」

質問には端的に答えようと努めたが、うまく伝わったかどうか、自信はなかった。

「松下通信を消滅させたことは、振り返ってみてグループにとってよかったのでしょうか?」
それが鈴木記者の第3の質問だった。

「グループの中での立場によっていろんな考え方があると思いますが、松下通信のOBの多くが感じているのは一体何のための改革だったのかという残念な思いが強いですね。」

鈴木記者は、「それはどうして?」と聞いてきた。

「松下通信は大きくは3つに分割され、それぞれに松下電器の関連営業部門が加わり、そして会社名もカタカナ表記に変わった。いわばガラガラポン状態のやり方だった。松下電器本社としては、大胆な改革により新しい組織で新しい時代に挑戦してもらいたいという目論みがあったのかも知れないが、松下通信に在籍した者にとっては何故自分達だけがという戸惑いの方が強かった。とてもじゃないが産業分野で奮闘してきた松下通信のDNAを残すという気概を持てる状況にはなかった」

「グループ全体の改革を進めるとき、本社として出来ることと、やっていいことは別のもののように思う・・・」
少し言い過ぎたかなと言葉に窮していると、鈴木記者は静かに話し出した。

「実は今日、3つの質問をお聞きしたのは、今後、松下通信の歴史をまとめるにあたって、あなたがその語り部の一人に相応しいかどうかの確認をさせていただくものでした」

鈴木記者はあらためて私の顔を見つめ、申し訳なさそうなしぐさでさらに続けた。

「関東の地、特に横浜をベースに大きく発展した松下通信が何故突然消滅したのか、大阪に本社を持つ松下電器にどういう考えがありどういう思惑があって松下通信を解体し消滅させたのか。グループの将来にとって良かったのかどうか、吉と出るのか凶と出るのか。ジャーナリストとしては大きな興味を持たざるを得ません。あなたから、松下通信の歴史について様々な観点からお聞きしていこうと思います。どういう形で進めるのか検討させてもらって、来月にでも連絡させていただきます」

私にとってはうれしい話だった。今後、あらためて時間を取ってもらいたいとのことなので笑顔で了解した。


2009年10月某日

10月に入ってから日経鈴木記者から電話が入った。松下通信についての取材については大きな取組なので、記者がお受けするより作家の方がいいのではということになり、神奈川出身で企業がらみが得意の中松に会ってもらいたいとのことだった。

そして翌週、中松氏が馬車道の会社にやってきた。まだ30歳前と思われる若く優しそうな作家は、すぐに原田が大阪出身と見抜いた。

「松下電器に入ったのは昭和46年、配属は中央研究所でした。昭和49年に松下通信に転勤になり、以来、横浜の住民になっています」

中松氏はすぐに本題に入った。
「松下通信については以前から興味はありましたが、知識は一般の人と変わらないレベルでした。鈴木さんから話を聞き、この会社の生い立ちに改めて驚愕しました。いろんな切り口からお話をお聞きしたいと思いますが、まずはこの会社を支えた50人という観点からお聞きするのはいかがでしょうか。もちろん原田さんからの主観的な判断で結構です」

「それはいいと思いますし進めやすいと思います。私自身は、事業部の技術者、組合の専従役員、経営企画責任者、技術企画責任者と様々な立場で多くの方に関わりました。とんでもない優秀な人、実に個性的な人、役員にも思慮深い人もいれば強面の人もいました。様々な人が松下通信を支えてきました。ぜひ可能な限り話をさせていただきます」

そして中松氏は翌11月に再びやってきた。


2009年11月某日

作家の中松に原田から説明を始めた。
「松下通信を支えた50人として、まず上げなければならないのは何と言っても松下電器の松下幸之助創業者です。」

中松は「それはそうですね」と相づち。

「松下幸之助が松下電器を創業したのは大正7年・1918年。その40年後に、家電とは異なる全く新しい会社の設立を決断します。産業分野の将来性を見抜き、新会社設立と東京進出を指示するとともに、自ら初代社長に就任されました。特に無線通信分野を最重視されていてそのために社名も松下通信工業になったものと思われます」

「原田さんはお会いになられたことはないですね」
中松が確認してきた。

「新入社員だった中央研究所時代に何度かお目にかかりましたが、松下通信設立は入社以前のことで、すでに松下通信の社長は退任しておられました」

少し間をおいてから、
「松下幸之助社長は、松下通信が飛躍をするためにいくつもの仕掛けをされましたが、その最大のものは、当時の組合と協議して「三者協定」を結び社員の身分を松下電器と同格にしたことです。これで社員の意気が上がり、松下グループ内の人材交流が活発化し、優秀な新入社員が入るようになりました。人材がなければ松下通信の発展はなく、松下通信の発展がなければ松下グループの産業分野の拡大も望めなかったことで、見事な判断であったと思います。」

「次に上げるべきは、松下通信創業時に最も重要な役割を果たした山口三津男です。私がこれから上げようとする50人の中で、実は唯一私が会ったことがない人物です。正確に言えば昭和49年に半年ほど勤務が重なっているようですが、向こうは専務、こちらは転勤してきたばかりの新人という立場で、お会いする機会はなかったように思います。」

「もしかするとすれ違いぐらいはしていいたかも知れませんね。」
中松は笑いながら軽口をたたいた。

「当時、第9事業部長に就任したばかりの山口は、松下幸之助社長から松下通信設立の意向を受けました。2年半に及ぶ周到な準備により創立手続を終えた後、おもには松下幸之助社長のもとで10年半の間、常務取締役として、さらに二代目田中社長のもとで6年間、専務取締役として松下通信の土台作りに邁進しました」

「新しい組織を作る時はこういうひたむきな人物が不可欠ですね」

「山口は、新会社発足式の挨拶で、通信機器を一般大衆のものとするために、優れた技術を結集してフィロソフィーを持った会社にしたいと抱負を述べました。スタートから急成長を続ける中で次々と課題が発生しますが、解決に向けて日々奮闘を続けたと思います。松下通信が世間にも名の知れた会社として育つまでの彼の貢献は本当に大きいものでした。住友銀行出身の田中社長の時の退任は、やり遂げたというよりも、まだ志半ばで無念の思いがあったと聞いています」

「・・・・・・・・・」中松は無言だった。

「松下通信退社後は渡辺測器(現グラフテック)に移られ、社長として思いきり手腕を発揮して社業発展に貢献されたそうです」

「次に上げたいのは、松下幸之助創業者の娘婿松下正治です。彼は、松下通信を支えた人物というより、最も長い間、松下通信の経営に関わった人物と言ったほうが相応しいかも知れません」

「なるほど」と中松は頷いた。

「創業から12年半は取締役として、続いて15年間は会長として、さらに1年間取締役に就かれた後、松下通信の役員としては退任されました。しかし、その後も松下通信の毎月の取締役会にはオブザーバーとして欠かさず出席されていました。結局、彼は、松下通信創業時から松下通信の消滅時まで通して松下通信の経営に関わっていたことになります」

原田は一息入れた後、話を続けた。

「何しろ松下電器本社の会長でもあり、オブザーバー出席と言っても、松下通信の取締役会でも主役になることは自然の流れであったと思います。彼にとっては、松下電器での立場と異なり、松下通信には特別な思い入れも持たれていたようで、毎月の取締役会への出席を楽しみにさえしておられたはずです。松下通信の経営陣にとっても彼はありがたい存在で、取締役会は十分な準備をして温かくお迎えしていたようです。とは言え、取締役会で発言する役員にとっては緊張の場でもあり、実際に役員や事業部長の人事についても少なからず影響があったと思います」

原田は、これはあくまで個人的な私見です、という言葉を付け加えることを忘れなかった。

「次は松下通信を支えた50人の大本命です。歴代社長7名の内、松下幸之助初代社長は別格として、最も実力のあった社長は小蒲秋定です。社長として十分な威厳とカリスマ性を持ち、卓越したリーダーシップで会社を牽引して移動体通信事業を大きく育てました。小蒲社長の時代に松下通信はいわゆる一流企業の仲間入りをはたしました」

「4人目は小蒲秋定社長ですか。」と中松。

「小蒲秋定は無線機器技術者として無線事業部長を経験の後、昭和43年から経営陣に入りました。取締役3年、常務取締役1年、専務取締役4年を経て、昭和51年に第3代社長に就任、社長在任期間は10年です。社長就任年の売上高は853億円、社長退任時の売上高は3,172億円と実に4倍近くに飛躍しています。小蒲社長の下で、自動車電話の商用化、光LANの商用化、カーエレクトロニクス事業の展開、RAMSAブランドの立上げ、輸出の強化、アメリカ松下通信・ドイツ松下通信の設立、等が進められました。NECや富士通をライバルとし、すき間産業という言葉で事業展開に機敏な動きを求めました」

「素晴らしい社長だったというのはよくわかります。原田さんとはどんな関りがあったのですか」と中松は尋ねた。

「小蒲社長の時代、私は組合の三役でしたので労使として向かい合っていました。何しろ実力社長ですので個人的には対等とは程遠い関係で、経営上の課題としてソフト開発の強化を迫りましたが反論されるばかりでした。が、実際には松下電器と共同出資でソフト会社をスタートさせましたのでさすがと感心しました。昭和58年のディズニーランドのオープニング式典は、小蒲社長が会社代表として、私が組合代表として二人で出席したことがいい思い出です。式典後は私がスペースマウンテンに挑戦し、小蒲社長はカリブの海賊で楽しまれたそうです」

「小蒲社長のことは様々な観点から調べる必要があるようです。50人の話は今日はこれくらいにして、また来月お伺いさせていただきます」

原田もいったん話を終わらせたいと思っていたので阿吽の呼吸だった。


2009年12月某日

中松は12月半ばにまたやって来た。
「実は松下通信のOB2名にお会いし会社幹部の切り口から大変興味深い話をお聞きしました。綱島と佐江戸の事業場も拝見してきました。綱島はすでに閉鎖されていて金属板に囲まれて少し異様な光景でした。」
中松はこれまで以上に松下通信の歴史に興味を持った様子だった。

原田は、松下通信を支えた50人として石沢命孝を次に上げ、話を再開した。
「第4代の社長には、それまでビデオ・音響事業を牽引してきた石沢命孝がわずか2年間の役員経験の後、選ばれました。前小蒲社長が無線機器事業出身で、この分野を最重点事業としてきたことから、石沢社長の登場は誰の目にもやや意外でした。おそらく当時の松下電器社長がビデオ事業出身の谷井昭雄であったことが関係しているのかも知れません。もし小蒲社長自身が後継者に石沢命孝を選んだとしたら大変なバランス感覚の持ち主だったということになります。石沢命孝は、社長就任当時、“勝てば官軍”という言葉をよく使っていたことを覚えています。今考えてみればご本人の正直な思いで意味深い言葉でした」

「確かにこの展開は意外ですね」と中松はつぶやいた。

「社長在任期間は約3年半と短命に終わりましたが、石沢命孝は松下通信の成長を維持すべく精力的に事業を展開しました。今では犯罪撲滅に貢献しているNシステムの開発納入や携帯型自動車電話、日本語ワードプロセッサー、3CCDカラーカメラ、ハイビジョン中継車、ホール音響システム等の商用化は石沢命孝社長の時代でした。海外事業ではフィリピン松下通信、イギリス松下通信を設立し海外拠点を強化しました。また、自身の出身大学である東北大学の近くに松下通信仙台研究所を設立し、自ら社長に就任して地元の優秀な人材確保に努めました」

「なかなか頑張りましたね」と中松。

「1988年は松下通信創立30周年に当たり、仕入れ先や販売会社も含めて様々な形で記念行事を行いました。4月に大々的に開催した技術内覧会では、松下通信の開発成果を一堂に集めて松下グループ内外の注目を集めました」
原田は、石沢命孝が松下通信の華々しい歴史の一翼を間違いなく担ったという点を強調した。

松下通信を支えた50人として原田が次に上げたのは松田章だった。

「松田章は、松下電器の常務を退任して5代目社長に就任しました。常務と言っても家電分野の担当で、松下通信にはその人となりを知る人はほとんどいませんでした。軋轢が生じてもおかしくない状況でしたが、心優しいリーダであることが社内ですぐに理解され、敵を作ることはまずなかったと思います」

「背景を調べる必要がありますが、なかなか思い切った人事ですね」と中松。

「松田章社長は、社員の基本的な心構えとして、お客様第一、ベクトルを合わせる、明るく楽しい職場の3点を訴えると共に、社長自ら若手課長職を対象とした研修会:松田塾を主宰し、これまでとは違ったわかりやすい手法で松下通信の風土改革を果たしました。事業面では2つの事業本部を設け、二人のベテラン専務にその運営を託しました。綱島地区事業場を中心とした情報通信事業本部は川田専務が担当し、佐江戸地区事業場を中心としたAV事業本部は唐川専務が担当することでより強固な経営体制が生まれました。それまでの松下通信は、どちらかと言うと個性の強い事業場の集合体のような体制でしたが、松田章社長の下で初めて一体感が醸成され始めたように感じました。そういう点で大きな功績を残されたように思います」

「社長在任期間は確か4年でしたね」と中松は聞いた。

「そうです、4年です。就任時は、当時組合3役だった私に“4年だけ”とささやくように言われました。本気にはしていなかったのですが、退任時に“約束通り4年”と話された笑顔は今でもはっきりと覚えています」
原田は、感慨深げにそう答えた。

「松田章社長が後継に指名した第6代社長川田隆資は、当然ながら松下通信を支えた50人の代表的人物です」
原田は、いつもより強い口調で説明を始めた。

「御成門近くのホテルでマスコミ関係者に対して行われた川田社長就任披露の会場で、経歴や人となりを初めて知った記者が、この説明が本当ならすごい社長、と驚嘆していたのを覚えています」

中松氏は「ホー」と原田の顔を見た。

「社長就任後は、まさに記者が驚いた通りの破竹の活躍でした。会社として常に若々しく成長を、常に何かに挑戦を、と訴え、通信事業・プロAV・カーエレの3つの分野で世界トップを目指す、システム事業で業界リーダーとなる、を経営方針に掲げました。どの事業部にも市場1位となることを求め、技術出身の社長にもかかわらず実現不可能とも思えるような目標を設定し、見事に実現させてきました。携帯電話やカーナビの分野でシェア1位を獲得できたのはまさに川田社長のリーダーシップの賜物です。産業用分野を担う松下通信で市場1位を目指せと訴えた初めての社長で、特に3G:第3世代携帯電話の開発では、オール松下の支援を得て、NECと共に世界最速での端末&基地局の商品化を実現しました。社長在任期間は、1993年からグローバル1兆円を達成した2001年までの8年間となりました」

「川田社長時代の原田さんのミッションは?」と、中松が尋ねた。

「社長就任時は、私は技術本部で企画管理部長の任にありましたが、4年後に経営企画部長として社長の直属スタッフとなりました。事業部中心の松下通信では、本部スタッフにあまり力はありませんが、それでも特に松下電器との関係において好きなようにやらせてもらいました。経営企画部長を3年勤めた後、再び技術本部に戻りました」

原田は、話したいことはいくらでもあるといった顔をしながらも、自分の話はポイントだけに留めた。


「原田さん、話をお聞きしていて、どうしても一つわからないことがあります。」
原田が、松下通信を支えた50人の一人として川田隆資の話を終えた時、中松が突然切り出した。

「私は日経新聞の要請を受けて松下通信の歴史を振り返ろうと原田さんにお会いしました。これまで原田さんの話をお聞きし、何人かの松下通信のOBにもお会いし、そして自分なりに松下通信の過去の記事を調べてみました。その結果、松下通信ほどの素晴らしい会社はそんなに見当たらないということがわかってきました。松下通信は、間違いなく松下グループの技術をリードし、産業分野での市場をリードしていました。そんな松下通信を“破壊と創造”という名目のもとに、なぜ解体してしまう必要があったのでしょうか。中村社長は、なぜ本社改革を後回しにして松下通信や九州松下といった元気のいい子会社にメスを入れる必要があったのでしょうか。どう考えても理解できないおかしな話です」

「そうです。今振り返ればその通りです。以前、鈴木記者からも同じような質問を受けたことがあります」
原田は、中松の疑問に大いに賛同した。自分の思いに近づいてくれたことでうれしくなった。しかし、同時に二人が同じような思いでは先に進む上で支障をきたす、との思いも浮かび別な切り口で説明した。

「日経新聞から“松下の中村改革”という本が出ていますが、この中にはこの点に関しての記載はありません。いろんな考え方があると思いますが、中村社長がなぜ松下通信を解体したのかは直接お聞きしたわけではないのでわかりません。出来れば知りたいのは、あの時、中村社長はご自身の果たすべき役割をどう判断されていたのか、松下グループの課題をどう捉えておられたのか、そしてご自身が松下通信という会社にどういう思いを持っておられたのか、という3点です」

「そうですか。いま中村元社長にお会いしてお聞きしたとしても説明いただくことは難しいでしょう。松下通信の解体を進めた背景の考え方がよくわからないという点がわかっただけでもとりあえず納得です。松下通信の歴史を調べる上での一つの課題としましょう。これは私の宿題にして下さい」
中松はにっこり笑ってそう答えた。

「この点はこれから考えるべき大きなポイントにするということで、今日はこの辺で終りにしましょう。次は来年になりますが、また松下通信を支えた50人の話に戻りましょう。川田隆資社長の次は、もう一度遡って役員クラスから続けさせていただきたいと思います」

二人は翌年の日程を打ち合わせ、お互いに年の瀬の挨拶をして別れた。


2010年1月某日

年が明け、約束の日に中松氏はやって来て珍しくプライベートな話を始めた。
「こう見えても結構仕事が入っていまして時間に追われている毎日なのです。ところが今年の正月はぽっかり休みが取れまして、久しぶりに家族で実家の仙台へ行ってきました」

原田は、家族のことを聞くべきか仙台のことを聞くべきか迷った後で、結局、話題にしやすい仙台のことを聞くことにした。
「仙台はどの辺ですか」

「実家は泉区にあります。比較的新しい街で、仙台駅から車で30分ほど、地下鉄も走っています」

「泉区なら松下通信仙台研究所のあったところです。今は何と呼んでいるのか忘れましたが、仕事の関係でよく行きました。仙台にはかなり思い入れもあるのです。駅近くの国分町界隈は独特の雰囲気ですね」

しばらく仙台の話が続いた後で、中松の方から話題を切り替えた。
「昨年は、松下通信が何故解体されたのかという話になりましたが、いろいろ調べさせていただき、当時の松下電器本社と松下通信の関係が少しわかり始めました。まだまだ確認しなければならない点が出てきそうです」

一息おいて中松氏はさらに進めた。
「ところで、松下電器は一通りの構造改革の後、2006年に中村社長から大坪社長に代わり、2008年に社名をパナソニックに変更しました。本来ならばエネルギー溢れる会社になっているはずですが、どうも明るい展望が見えませんね」

「その点はおっしゃる通りで、OBとしても頭の痛いところです。最大の問題はテレビ事業の進め方に課題があることです。プラズマテレビの優位性が本当に市場で認められて液晶に勝つことができるのか、そこが難しいところです。プラズマテレビにかけた以上、パナソニックがこれから大きな壁を迎えるのは避けられないと思います」
原田はそうした説明をして、再び松下通信を支えた50人の話に戻すことにした。


松下通信の事業の3本柱は、無線機器と自動車機器とAV機器の3つの事業。この内、自動車機器事業を初期の段階で育てたのは新屋純之輔だった。

「新屋純之輔は、1962年の自動車ラジオ事業部発足時に事業部次長に就任し、1974年までの間、自動車ラジオ事業部、自動車機器事業部を牽引して、自動車機器事業を松下通信の大きな柱として成長させることに貢献しました。役員としては1968年から1978年までの10年間、取締役に就任されています」
原田は一気に中松氏に説明した。

「自動車ラジオは、松下通信発足前から、いすず、日産、トヨタへの納入を始めていて松下通信設立時にはすでに大きな事業になっていましたが、1962年に音響事業部から分離して独立の事業部となってからさらに大きく成長しました。1963年には綱島地区に生産設備を新築して月産10万台まで高まりましたが、さらに1967年には佐江戸地区に月産20万台体制の新工場を建設しました。1972年にカーステレオ生産累計100万台を達成し、翌1973年にはカーラジオ生産累計1000万台を達成しています。いずれも新屋氏の見事な手腕による賜物でした」
中松はただうなずくしかなかった。

「松下通信が創立直後から急成長を続けたという点では経理業務でも経営を支えた人材がいるはずですね」
今度は中松から原田に尋ねた。

「そうです。経理業務での第一の功労者は黒岩幸衛です。彼の役員就任期間は、小蒲元社長の役員就任から社長退任までの期間とほぼ一致しており、小蒲体制の懐刀として、今でいうCFOの役割を果たしました。1969年から3年間取締役、6年間常務取締役、さらに6年間専務取締役、そして2年間、監査役を務めています」

具体的にはどんな業績があったのですかと中松は聞いた。
「経理部門のトップとして役員就任直前には株式二部上場を実現し、役員就任後に一部指定替えを果たしました。株式公開に合わせて経理部門を強化し、経営の透明化を進めました。これが経営の強化にもつながったと思います」

原田は一息入れて話を続けた。
「松下通信では、本部部門として人事部、経理部がありますが、各事業部にも人事部門、経理部門がありました。黒岩幸衛は、この体制をフルに生かし、毎月、各事業部から販売実績、計画比、前年比を速やかに出させ、会社全体の経営概況を早期に明確にする体制を確立しました。この経営概況は、毎月の総合朝会で全従業員に周知徹底され、事業部間の競争意識を高める役割を果たしました」

「なるほど、経営の透明性を高め、それで従業員のやる気に結び付ける、というのはすごいですね」
中松は黒岩幸衛の手腕をあらためて感心した。






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本社・綱島工場での朝会風景