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- 1983年(昭和58年)の松下通信
- ■創立25周年での思い
- 昭和58年の1月の創立25周年記念式典で、小蒲社長は松下通信の重要課題として、「世界に通用するトップ商品の開発」、「新規事業分野の開拓と育成」、「海外販売力の強化と海外生産」、の3点を強調した。松下通信の海外生産は、まさにこの年から本格的な展開が始まることになる。
- ■組合要求でスポーツセンター竣工
- 松下労組通信支部は、常時本部に役員を送り松下労組の中核となっていたが、村林支部長、原田副支部長、斉藤書記長の時代に絶頂期を迎えた。残業・年休・経営課題にするどく意見具申し、福祉要求にも力を入れた。代表的なものとして、昭和58年4月には、綱島地区にスポーツセンター建設を要求し会社もこれに応えた。
- ■光通信LANの開発
- 高度情報化社会の基盤技術となる光通信LANは、昭和58年に東京都交通局への8Mbpsの光データハイウェイの納入に始まる。59年には電電公社横須賀通信研究所の指導により100MbpsLANを開発、翌60年の科学博会場の基幹伝送路として活躍する。61年にはデジタルネットワーク用各種専用LSIを開発し松下グループ内を含めて光通信LANの普及が加速する。
- ■アメリカ松下通信の創業
- 昭和58年7月、米国シカゴにアメリカ松下電器の一分社としてアメリカ松下通信を設立、アメリカ向け自動車電話の海外生産を開始した。陣頭指揮は電波事業部出身で始めての海外勤務となる副社長石河雅喜。隣接しているアメリカ松下電業社の支援も受けて、出向者5名、現地採用者12名と共に、わずか18名で苦労の末に生産立ち上げに成功した。
- ■情報システム事業部、メモリー装置事業部の新設
- 昭和58年9月、データ制御事業部を情報システム事業部とメモリー装置事業部に分割した。メモリー装置事業部は、竣工した岩手県花巻工場でFDDを量産するため事業本体が花巻を拠点とする。データ制御事業部長西山昌は初代メモリー装置事業部長に就任し、情報システム事業部長には大杉欣一郎が就任した。
- 1983年(昭和58年)の納入製品・販売製品
- ・アストロビジョンを米国フィリーズ社に輸出
- ・パーソナル無線を発売
- ・ハンドヘルドパソコン「JR-800」を発売
- ・営業支援システムを日本生命に納入
- ・書留総合システムを郵政省に納入
- ・アストロビジョンを米国ロサンゼルスオリンピック競技場に納入
- ・文教市場向けパソコンを発売
- ・音声認識電卓を発売
- ・米国向け自動車電話USセルラーAを初出荷
- ・デジタル構内電子交換機を松下電器ビデオ事業部に納入
- ・超音波診断装置「PANAVISTA」を発売
創立25周年謝恩パーティー
光通信LANを開発
ロス五輪にアストロビジョンを納入
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■目次
第1部:未来つくりの日々
1958年:松下通信工業誕生、発足記念式での話、引き継いだ事業、発足時の概要・組織、東京営業所の開設/ 1959年:本社工場用地取得、人材の採用、品種別組織の採用、FM無線機の事業化、販売会社の設立/ 1960年:横浜綱島に本社工場移転、労組新支部と新従業員組織の発足、電子学校の開設、録音機事業を移管/ 1961年:事業部制の導入、電話機器分野に進出/ 1962年:3事業部制から6事業部制へ、FM放送装置の開発/ 1963年:増設工事の実施、大幅増資の実施、マイクロホンの量産化/ 1964年:電子計算機事業からの撤退、東京オリンピックへの機器納入、佐江戸地区の用地取得、綱島地区第3期工事竣工/ 1965年:販売網の整備、完全週休2日制の実施、スローガン決定/ 1966年:田中新社長の就任、テレビカメラを事業化/ 1967年:郵政省への機器納入、佐江戸地区への移転/ 1968年:株式を上場、ミニコンピュータの開発、ポケットベルの開発、自動車電話の開発/ 1969年:事業部の再編・統合、事業本部制の導入/1970年:松下正治会長の就任、交通管制システムの開発、衛星搭載機器の開発/ 1971年:集積回路工場竣工、視聴覚機器事業部を佐江戸北地区へ、鉄道自動案内放送システムの開発/ 1972年:担当専務制の導入、海外に自動車電話を輸出/ 1973年:ミニコンで富士通と連携、自動放送システムの開発、カーラジオ生産1千万台を達成/ 1974年:福島県白河に工場展開、長野県松本に工場展開/ 1975年:タクシー自動配車システムの開発、POSシステムへの参入/
第2部:業界のリーダに
1976年:小蒲新社長の就任、800MHz帯自動車電話を商用化/ 1977年:小蒲社長の運営方針、カーコンポ時代の到来/ 1978年:デジタルビデオプロセッサの開発、カーステレオが北米で好評/ 1979年:ソフト会社の設立、工事会社の設立、プロ用サウンドRAMSAブランド誕生、カーラジオ生産2千万台を達成/ 1980年:研究開発体制の強化、カーエレクトロニクス時代へ/ 1981年:ビデオカメラ事業部を新設、岩手県花巻市に進出/ 1982年:アストロビジョンの開発、MCA無線システムの開発、パソコン事業での挫折/ 1983年:創立25周年での思い、組合要求でスポーツセンター竣工、光通信LANの開発、アメリカ松下通信の創業、情報システム事業部、メモリー装置事業部の新設/ 1984年:超波診断装置をシーメンスへ、集荷情報処理システムの開発/ 1985年:アメリカ松下通信の子会社化、ドイツ松下通信の設立、技術研究棟を佐江戸地区に、ショルダーホンの開発/ 1986年:石澤新社長の就任、石澤体制の役員陣容/ 1987年:Nシステムの開発、アメリカ松下通信、シカゴからアトランタへ、フィリピン松下通信の設立/ 1988年:イギリス松下通信の設立、松下通信仙台研究所の設立、電波事業部樽町工場の展開/
第3部:モバイル日本一へ
1989年:松田新社長の就任、松田体制の役員陣容、松下通信金沢研究所の設立/ 1990年:経営ビジョン「10年構想」を策定、事業本部制を再導入/ 1991年:携帯電話「ムーバーP」快進撃開始、松下通信静岡研究所の設立、静岡工場を竣工/ 1992年:テレコム研究所、AV&C研究所を設立、北京松下通信を設立、YRPへの参画を開始、カーナビゲーションの開発/ 1993年:川田新社長の就任、川田体制の役員陣容、米国エミー賞3年連続受賞、パーソナルコミュニケーション事業部を新設、ビジネスワープロ事業の移管/ 1994年:米国マグドナルド向けPOSシステム好評、カーエレクトロニクス事業部、カーシステム事業部の新設/ 1995年:YRP移動通信基盤技術研究所設立を主導、メキシコ松下通信、大連松下通信を設立、PHSサービスの開始に貢献、蘇州松下通信を設立、カーオーディオ、生産累計1億台を達成/ 1996年:YRPへの単独進出を決定、コミュニケーションシステム事業部を新設、放送システム事業部を新設/ 1997年:ITS事業開発センターを新設、発展2000年計画を策定、ITS評価実験施設を竣工/ 1998年:創立40周年を挙行、国内携帯電話が高い評価、松下通信YRP研究所を竣工、全工場が環境認証を取得、西暦2000年問題への対応/ 1999年:ETCシステムでトップに、W-CDMA端末・基地局メーカーに指定、英国シンビアン社に出資、SDカードの導入検討を開始、放送システム事業の移管/ 2000年:ソフト開発体制の強化、初の海外IR活動の実施、W-CDMA基地局装置を初出荷/ 2001年:海外での移動体開発体制の強化、欧州携帯電話事業の再編、グローバル1兆円を達成、桂新社長の就任、桂体制の役員陣容、カンパニー制の導入、携帯電話プラットフォーム開発の強化、NECとW-CDMA端末で提携、W-CDMA端末を初出荷、佐江戸新研究棟の竣工/ 2002年:630名の早期退職、初めての赤字決算、松下電器の完全子会社化へ/ 2003年:松下通信の消滅/
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